日本におけるフィンランド公館の歴史

フィンランドと日本の外交関係

ソ連国内の展開を観測する任務に

1919年5月23日に日本がフィンランドの独立を事実上承認して以降、フィンランドは日本に代理大使を駐在させることを検討しはじめた。日本の地政学的位置が、ソ連東部における展開を見守る観測所としてふさわしいと考えられたのだ。ルードルフ・ホルスティ外相は、日本駐在フィンランド代表にはグスタフ・ヨン・ラムステッドを任命するよう主張する意を固めていた。ロシア革命とアジアを横切る陸のルートがなかったせいで、新しいフィンランド代表にとって唯一の方法は、長い海の旅に乗り出すことだった。

家から家へ転居

困難な船旅の果てに、ラムステッド氏がやっと東京へ到着したのは1919年の晩秋。彼は最初、主要な鉄道駅に近い築地精養軒ホテルに在外フィンランド公館を設立した。到着して何週間か後、ラムステッド氏は郊外の下渋谷地区に家を1軒借りることができた。1920年5月には、麻布にある元アルゼンチン大使館だった建物を在外フィンランド公館として使えることになった。麻布は大使館が多いことで知られる地区である

1923年9月、大震災が東京を襲い、莫大な被害をもたらした。フィンランド外交団はまたしても拠点を失った。1924年1月、ラムステッド氏はこう報告している。「私は今、帝国ホテルの327号室に泊まっています。今のところ、市内に恒久的な住居を見つけるのは不可能です」

1920年代半ばになると、ソビエト極東地方の軍事的・政治的緊張がある程度緩和したため、東京駐在のフィンランド外交団は、広大な極東経済地域における通商上・政治上の利益を守ることに活動の重点を向けるのが妥当だと考えた。ラムステッドの任期中は日本の政治情勢はまだ安定していた。1929年に彼がフィンランドへ帰国したとき、世界は不況の深みに沈みはじめていた。日本の軍内部では国粋主義と天皇崇拝とが勢いを得つつあった。

民主主義への道

1930年3月初め、閣僚G.ウィンケルマンが東京駐在フィンランド代理大使に任命された。民主主義への道は停滞していた。日本の政治情勢は、ここ長年なかったくらい不穏だった。日本の主たる関心は満州にあった。

日本はその対中政策の結果、国際連盟で孤立的立場になり、ついには脱退した。1933年、フーゴ・ヴァルヴァンネが東京へ派遣されたときには、日本の国内的・対外的政策決定において超国粋主義勢力が穏健派に対して優位に立ちつつあった。大規模戦争の脅威、ソ連に対する姿勢、そして日本の国益などが、 1930年代の東京駐在外交官同士の話し合いに影響を及ぼしていた。

大戦中の世界

1939年秋、日本の国際的立場は変わった。欧州でのさまざまな出来事と、ドイツとソ連が不可侵条約を結んだという事実とが、日本の権力上層部に手痛い失望をもたらした。日本は孤立した。

フィンランドの冬戦争前夜、日本はフィンランドに非常に良いイメージを抱いていた。困難な交渉の只中で奮闘するフィンランドに共感さえ持ち、冬戦争の当初はフィンランドがほとんど絶望的な状況にあるとみていた。フィンランド国民による抵抗の成功と大規模な戦術的勝利は、日本国民の間に大きな尊敬の念を呼び起こした。

ヘルシンキあての電報

1941 年早春、松岡洋右外相はドイツとイタリアを訪問した。ベルリンではヨアヒム・フォン・リッベントロップが、シンガポールを攻撃せよと日本に迫った。帰国の途上、松岡外相はモスクワを訪れて日ソ中立条約に署名した。日本は自分の身を守ったのだ。今や、軍事活動の重点を太平洋へ転ずることができる。

1941年から1944年にかけての戦時中、日本の軍事行動によって東京駐在フィンランド外交団は孤立した。特使による連絡は途絶え、接触は電報で行うほかなかった。

1942 年夏には、日本の戦線は下降線をたどりはじめた。フィンランドがドイツとの外交関係を断絶したのち、松本外相はフィンランド特使イードゥマン氏に接近し、新たな状況におけるフィンランドの日本観を不安げに問うた。イードゥマンは1944年9月30日、自分の理解するところでは、我が国の外交関係という問題が日本の関心をひく理由はフィンランドにだけあるのではない、と報告した。もしフィンランドが日本との関係を断絶せざるを得なくなれば、ロシアも後日それにならうかもしれないと続けた。

ソ連はまさに日本が恐れていた通りの行動をとり、満州と千島列島を攻撃した。フィンランドは日本との外交関係を断絶し、外交団の一行をシベリア経由で故国へ避難させた。

外交関係の回復

フィンランドと日本の外交関係が途絶えて以降は、スウェーデンがフィンランドの保護者という立場で日本におけるフィンランドの権益を管轄した。8年間の不在を経て1952年春、フィンランド政府は東京へ代表を派遣するかどうかを話し合った。ほぼ同じ頃、日本の占領当局は、日本にフィンランド通商代表を駐在させることに関する問い合わせに対して前向きの回答を寄越した。その後間もなく、日本は独立を回復した。

同年秋には代表団は総領事館として機能することとなり、その5年後に公使館となった。東京駐在フィンランド特使としてのスメズスルンド氏の任期は1962 年8月1日で終了し、ヴィルヨ・アホカスが初の東京駐在フィンランド大使となった。1962年9月26日、アホカス大使が日本国天皇に信任状を奉呈した時点で、公使館は正式に大使館に指定された。1960年代には、フィンランドと日本の通商関係はさらに活発になった。その結果、日本とフィンランドの交流も復活してきた。

二国関係のルネッサンス

1977 年2月には、ケイヨ・コルホネン外相が日本を初めて公式訪問した。同年12月にはカレヴィ・ソルサ首相が、日本で開催された社会主義インターナショナルの会議に出席した。1977年秋には、フィンランド教育省が文化交流協定に関する交渉をスタートした。両国関係にとってかつてない活況期となった。
 

1980年はフィンランド・日本関係における記録的な年で、二国間にかつてないほど多くの出来事があった。6月には文化交流協定が効力を発し、12月には長年懸案だった航空協定が調印された。フィンランドからは、国会の外務委員会やヨハンネス・ヴィロライネン議長等、来日者が増えた。日本の画廊の多くでフィンランド文化がテーマとして取り上げられるようになった。

輸出促進のためのイベントもいくつか行われ、なかでも重要だったのは、1980年3月、日本の雇用者連盟である経団連の代表団がフィンランドを訪れたことだ。同年9月には日本の国会議員の一団がフィンランドを訪れた。マウノ・コイヴィスト大統領は任期中、4度にわたって訪日した。1987年には中曽根康弘首相がフィンランドを訪問した。1983 年、フィンランド航空がヘルシンキ・東京間の直行便を就航させた。ソ連崩壊によってシベリア上空を通るフライトが可能になり、飛行時間が大幅に短縮された。

大衆文化、国家元首による公式訪問、災害援助

1990年代初め、フィンランドは経済危機に、日本は不況に見舞われ、それまでの高度経済成長は終焉を迎えた。フィンランド経済はその後、ノキア等の技術産業部門によって息を吹き返した。日本は一方、経済大国としての絶頂期が過ぎ、国際的地位を維持する術を考えるようになった。日本は1990年代以降、既に諸外国で関心が高まっている日本の大衆文化について国外に紹介することに積極的になった。やがてフィンランドにも世界的なクール・ジャパンの波が到達した。

2000年を迎えると、ポケモンやたまごっちが流行し、日本の大衆文化の熱心なファンによる愛好クラブの結成や雑誌の発行、大会の開催が増えた。日本では、日本・フィンランド・オランダが共同で制作したアニメ『楽しいムーミン一家』(トーベ・ヤンソン著)が空前のヒットとなった。また、2006年の映画『かもめ食堂』は、日本人のフィンランドへの関心を高めた。フィンランド航空が、2000年に関西空港とヘルシンキ、2006年に中部国際空港とヘルシンキを結ぶ直行便を就航したことは、深まる二国間関係の象徴的出来事となった。

著名人による二国間関係も親密さを維持した。2000年には天皇皇后両陛下がフィンランドを御訪問された。200410月にはタルヤ・ハロネン大統領と夫のペンッティ・アラヤルヴィ博士が日本を公式訪問した。外交関係樹立90周年を迎えた2009年には、高円宮妃がフィンランドを御訪問された。また、マッティ・ヴァンハネン首相が2005年と2008年に来日し、小泉純一郎首相が2006年にフィンランドを訪問した。2000年代はじめ、日本はOECD国際学習到達度調査(PISA)をはじめとする様々な国際比較調査やデジタル技術分野で快挙を遂げていたフィンランドの例に学ぼうとした。自民党は2005年にフィンランドの男女同権、ノキア、汚染されていない自然をテーマとしたセミナーを開催した。

20113月、東日本大震災が東北を襲った。史上最大規模の地震は津波を併発し、原子力発電所の事故につながった。東北地方では約18000人が死亡し、何十万人もが自宅からの避難を余儀なくされた。フィンランドは東北の復興に貢献し、液体ミルクの提供やチャリティーコンサートをはじめ、被災地の子どもたちを励ますサンタ・プロジェクトなどに参加した。

フィンランドと日本の外交100年

フィンランドと日本は2019年、外交関係樹立100周年を迎える。新たな100年を歩みはじめる両国にとって、文化や経済、政治レベルでの関係は、ほぼ間違いなく、今までのなかで最も強力で多岐に渡っている。2012年以降、駐日フィンランド大使館、フィンランドセンター、Business Finlandの三者は、その継ぎ目ない連携を「チームフィンランド」として展開している。

2010年代に入ると、二国間関係史の中で、日本でのフィンランドの認識が最も広範囲に及ぶようになった。とくにラップランドのオーロラなど、フィンランドの自然は日本で有名になった。2019年公開の映画『雪の華』はラップランドが舞台のひとつとなっている。フィンランドの福祉社会や平等社会、育児の公的拠点であるネウボラ、仕事と家庭のバランス、社会的実験、男女同権、性的マイノリティの権利等も日本で関心が高まっている。同時に、フィンランドの学生や学者、芸術家による訪日も増えている。

日本はここ何十年もフィンランドにとって重要な通商相手国となってきた。2017年までにフィンランドの対日輸出額は13億ユーロと記録的数字になった。日本にとってフィンランドは欧州や欧州市場の玄関先となってきた。1960年代の日本車の欧州征服はフィンランド経由で始まり、2010年代に入ると日本はフィンランドの森林部門やゲーム部門に投資するようになった。ヘルシンキで生まれたスタートアップのイベントSlushは、2015年東京に上陸した。フィンランドと日本は持続可能な環境を目指す循環経済を共に促進しており、日EU経済連携協定(EPA)は二カ国の経済関係をさらに強固にすることであろう。

日本とフィンランドの近い政治関係の現れとして、フィンランド共和国のサウリ・ニーニスト大統領と安倍晋三首相は2016年、日本フィンランド戦略的パートーナーシップに関する共同声明を発表した。2010年代は、大統領、首相、その他の閣僚が日本を多く訪れた。安倍首相も2017年、首相に就任してから初めての北欧訪問先としてフィンランドを訪れた。フィンランドと日本は、ウェルビーイング、環境、防衛、通商の分野で協力覚書を締結した。国際的機関ではフィンランドと日本は多面的協力、気候変動緩和に向けた解決策、人権問題で協力してきた。

二国間の関係は現在、かつてないほど強力で多様化した。日本人とフィンランド人には、共通の国民性から生まれる特別な理解と信頼もある。今後100年間も、フィンランドと日本の関係は従来以上に深まる可能性が大いにあるといえる。